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zoom RSS 神奈川県寒川町の梶原景時館跡

<<   作成日時 : 2014/07/05 13:27   >>

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 神奈川県の中央部にある寒川町に梶原景時館跡があります。

 寒川は、相模国の一之宮(いちのみや 地域で一番格式の高い神社)である寒川神社のある町として有名です。ここには、鎌倉時代初期の武将である梶原景時の館がありました。JR相模線の寒川駅の南西500m余りのところです。

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 梶原景時というのはどんな人でしょうか。下の説明板を読むと大体分かります。写真をクリックすると拡大します。

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 当日は雨模様で、景時の館跡では傘をさしながら写真を撮りました。説明板にも雨粒が付いており読みづらいかと思いますがご容赦を。

 なお、説明板にはこの辺りに堀の名残もあると書いてありますが、雨の中歩きまわるのは諦めました。ただし、天満宮は最初の写真のすぐ先にありましたので写真を撮りました。下です。

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 梶原景時につきましては、上の説明板で大体わかりますが、もう少し説明を加えておきます。

 梶原氏は、平氏の一族です。後三年の役(1080年代)で源義家の下で戦い、その傘下にいましたが、平治の乱(1160年)で源義朝(源頼朝、義経の父)が敗れ、その後は平家側についていました。

 1180年8月、源頼朝は反平家の旗揚げをしました。伊豆国目代であった山木兼隆を撃ったものの、兵力が揃わずその直後の石橋山の戦いで惨敗し逃げる途中、数人の仲間と大木の洞穴に潜んでいたところ、当時平家側にいた梶原景時は頼朝がいることを知っていながら仲間の部隊を別の方向に連れて行った、という話が残っています。

 その後、頼朝はなんとか追手を逃れ、東京湾を越えて安房国(あわのくに 千葉県)に渡り、そこで軍勢を立て直し上総国、武蔵国と兵力を増強しながら10月に鎌倉に入りました。景時はその12月に頼朝に投降したのですが、その後、頼朝の信頼を得、御家人として活躍することになります。景時は石橋山で頼朝と戦ったにもかかわらずその後投降した時に命を助けられたのは、隠れていた頼朝を見逃してくれたからだった、といわれています。ただし、この話ができすぎ(面白すぎ)なので、頼朝が影時を重用したのは何か理由があるのではと考え作られたお話だ、という説もあります。そうはいっても、景時は、弁が立ち、教養もあり、実務能力もあったことは確かなようです。

 景時についての有名なお話をもう一つ。

 その後、頼朝は平家討伐の軍を出します。そこで源義経が大活躍をし平家を滅ぼしてしまいます。景時は、義経の軍の軍奉行(いくさぶぎょう 軍の実務面も担当)となることが多くありました。義経は戦術家として無類の強さ発揮しましたが、独走する傾向もあり、景時は義経と衝突する場面がしばしばありました。景時は義経の行状につき頼朝に報告をあげていました。そのため、後世、義経の悲惨な最後への同情から義経人気が高まりその反動で、景時は、義経を妬んだ、告げ口ばかりした、貶めた、下劣な人間だと散々な評価を受けることになります。当時頼朝は軍の一元管理のために義経の独走を抑えようとしていましたので、景時は組織の中で当然のことをしたまでだった、とはいえます。いずれにしてもこの後も義経の暴走は止まらず、よく知られた義経の悲劇につながります。

 景時についてもう一つおまけのお話です。

 事務能力・実務能力に優れる景時は、その後、侍所(さむらいどころ 軍事警察を担う組織)別当(べっとう 長官)となり、頼朝、その子の頼家と二代にわたり重職を担います。これは、御家人たちの行動を監視し、評定・取り締まりを行う役職だったため、御家人たちからは恨みを買いやすい立場でした。そのため、「梶原景時の讒言」と言われるいくつかの事件を起こしています。ただし、問題とされた案件はそれほど多く記録されてはいないようで、総じて、着実に任務を遂行したといえるのかもしれません。

 しかし、1199年の結城朝光について讒言は「梶原景時の変」につながり、景時の命取りとなりました。当時有力な御家人の一人であった結城朝光に「梶原景時が朝光を将軍に讒言したためあなたの命が危ない」と伝える者があり、朝光は同じ御家人の三浦義村、和田義盛らと共に、景時に恨みを持っていた御家人を糾合し景時糾弾の連判状をまとめ将軍頼家に提出しました。そのとき景時はなんの言い訳もせずに所領の相模国一宮(いちのみや 神奈川県寒川町)に下りました。その後、景時は一族とともに京に向かいましたが、その途中、今の静岡市の近くで討たれました。これが、梶原景時の変です。

 東鑑(あずまかがみ 吾妻鏡とも書く 北条側の書いた歴史書)には、この件は「凡そ景時二代の將軍家の寵愛を誇り、傍若無人之威を振い。多年の積惡、遂に其の身に皈る之間、諸人向背を爲す也」と記されています。しかし、景時は北条側にとって都合の悪い人物であり、北条側が二代将軍頼家を廃して三代将軍に実朝を擁立しようとしていた動きを景時に察知されて先手を打った、という説もあります。結城朝光に告げ口したのは北条時政の娘(政子の妹)であり、その匂いはプンプンします。

 とにかく、景時の変は、北条氏によるライバル御家人追い落としの序章でした。

 梶原景時は中世から近代まで大悪人として描かれ続けましたが、最近のドラマでは、単なる悪人として扱われることは少なくなっているそうです。


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